再掲 Show more
「うわー……おーう……」
サテライトキャンパスを出ようとしたら、ぱたぱたと雨粒が道路を叩き始めていた。見上げた空はどこもどんよりと暗く、風の吹いてくる方向に至っては真っ暗だ。傘は、ない。雨宿りしていても、この空模様だといつ止むかわからなさそうだった。
急ぐわけでもないけれど、お腹空いたし帰ってご飯にしたい。
食い意地に背中を押されて雨の降り始めた街角を歩く。ちょうど会社勤めの人たちも仕事が終わる時間帯なのか人が多いけれど、みんなしっかり傘を持っている。えらい。そして私、天気予報見よう。
傘をさす人混みの中を傘無しで歩くのは、割とうんざりする。更に大通りを渡るところで案の定信号に引っかかって、流石にため息が出た。
「……信号待ちの間だけでも入るといい」
不意に後ろから声がして、雨がやんだ。振り返るとうんと背の高いおじさんが、私の方に傘を差しかけてくれていた。怪しい人かと思ったけれど、身なりはきちんとしているしふわりといい匂いがした。男の人に言うのも変だけど。
「……ありがとうございます」
素直に甘えることにしてお礼を言うと、おじさんがほんの少し微笑んだような気がした。
#雨とコーヒー
1-(3/終) Show more
「すまない、ここで曲がる」
駅の2ブロック手前でおじさんはそう言った。もう信号もないし、歩道も広くなっているから人ごみも気にならない。走ればすぐだ。
「ありがとうございました」
「気をつけて」
最初に傘を差しかけてくれた時のようにうっすら微笑んで見送ってくれる。そのまま駅までダッシュして、振り返るとまだ見守ってくれていた。親戚に見守られてるみたいでなんかくすぐったい。試しに手を振ってみると、おじさんはこっくり頷いてそして建物の陰に消えた。
それにしてもあんなところにコーヒー屋さんがあるのか。なんかボロいビルがあることぐらいしか知らなかったけれど、ちょっと探検してみる必要がありそうだ。
電車に乗って、地元に着く頃には雨はやんでいた。おじさんのおかげでびしょ濡れにはならなかったものの、濡れたからそこそこ寒い。玄関の鍵をかけてそのまますぐ、さっさと服を脱いで洗濯機に放り込む。
『温かい飲み物はほっとするだろう』
不意におじさんの声が蘇って、着替えを取りにいく通り道、やかんに水を入れて火にかけた。
2-(1) Show more
サテライトで授業があるのは週に一度、水曜日だけ。他の日はいつものキャンパスで授業を受けたりバイトをしたり遊んだりで、わざわざオフィス街まで行くこともない。だから、自然とコーヒー屋さんを探す旅は水曜になる。そんな楽しみがあったから、行ってみたら休講だった今日はむしろツイてる気がした。
駅の方まで戻って、おじさんが消えた角を入ってみる。古ぼけたビルだったような、という記憶は正しくて、例えばガラス張りでピカピカしているような建物は全然なかった。自動ドアの代わりに煤けた銀色の引き戸、スーツのサラリーマンやOLさんの代わりにTシャツのおじさんおばさん。そして、紙の匂いがした。小さなワゴンに紐で括られた冊子が積まれていく。小さい印刷会社か出版社か、そういう小さな会社がひしめく町だった。
紙の匂いに乗ってコーヒーの香りがしてこないかな、とわんこよろしくすんすん鼻を聞かせていると、とある建物の前で一番強く香ってくる。看板はない。行きつ戻りつしたけれど、どうやっても一番そこが香りが強いし実際人の出入りもあった。
ただそこは、所謂文化住宅、と呼ばれる建物だった。
2-(2) Show more
ここから見えるのは下駄箱と木造りの階段と廊下だけだった。建物は2階建て。はっきり言って、古ぼけているを通り越してボロい。一応人の出入りはあるけれどそんなに多くはないし、コーヒー屋があるにしてはテイクアウトしてくる人がいない。他のところかも、と思ってもう30分ほどぐるぐるとあたりを探してみたけれど、それらしいところはここだけだった。
「……毒を食らわば皿まで!」
なんか違うような気もするけれど、意を決して私はスニーカーを脱いで建物にあがることにした。
1階はあまり人気がない。奥の方の部屋ひとつだけテレビの音が聞こえてきたけれど、コーヒーの匂いはしなかった。これで誰か住んでいる人がコーヒー淹れただけだったりしたら、不法侵入だよね、これ……。わかってる。わかってるけど、それ以上に本当に何もないのか知りたい。
きしむ階段を踏んで2階に上がると、香りが強くなった。テレビやラジオではない、話し声が聞こえる。ひとつめ、ふたつめ、部屋の前を通り過ぎて、一番奥の部屋がそれっぽかった。相変わらず看板はなくて、他の部屋と同じく部屋番号が書かれた白いプレートが貼ってあるだけだ。
2-(3) Show more
入ろうかどうしようか。悩んでいると、ぎいと扉が開いた。香ばしいコーヒーの香り出てきたのはずいぶん小柄で小さくてぶかぶかの服を着た、男の人だった。難しい顔をして私を見上げてくる。
「……学生証を出せ」
「えっ」
めちゃくちゃいい声だけどめちゃくちゃ横柄だなこの人。
「ええと」
「学生じゃないのか?」
かわいい系のお顔の表情がますます険しくなる。
「学生、です」
「それが本当なら不法侵入で通報したりはしないと約束しよう。こんなオンボロに何の用があって来たのかは知らんがな」
この人の言葉を信じていいかはわからないけれど、いずれにせよ私の方が分が悪い。リュックから財布を取り出し学生証を差し出す。
「藤丸立香。国際学部……2年か?」
その通りだったので頷き返しつつ、
「あの……」
「聞きたいことがあるんだろう?ここではあまり話をしたくないから中に入るといい。コーヒーぐらいは出してやる」
こいつ話聞かないなー!
遮られてむっとする間もなく、扉が大きく開けられる。果たしてその奥で、色白の美人がにっこりと『秘密喫茶 告解』と書かれた段ボールを掲げていたのだった。
2-(4) Show more
畳敷き、多分8畳。広めの部屋ではあるけれどその一間だけだった。奥の方に本が山積みになった一角と、美人の前の大きめのちゃぶ台。それから、玄関側の壁にカセットコンロや電気ケトルの乗った調理スペース。真正面の大きい窓があって、晴れの日は気持ち良さそう。
「土足厳禁だ」
「あっ、はい」
促されるままスニーカーを脱いで、美人と同じちゃぶ台を囲む。
「お話いただくにしてもまずは温かいものがあった方がよろしいかと」
にこにことそう言った美人に、
「言われんでもいれる。お前は黙ってろ牛女」
「まあ。ひどいと思いませんか、ねえ……?」
あの人はいつもあの調子なのか……。
「誰に聞いて来たんだ?」
ぱちんと電気ケトルのスイッチを入れた男の人が聞いてくる。
「聞いてきたわけじゃなくてですね。ざっくり先週この辺にコーヒー屋があると聞いて、探検しにきたんです」
「……何を勘違いしてるか知らんがうちはコーヒー屋じゃないぞ」
「えっ」
「あくまで有料の人生相談所だ。相談一軒につき一杯ぐらいのコーヒーは出すがな」
にやり、と笑ったその顔が、それは建前だということを教えてくれていた。変なの。
2-(5) Show more
「そもそも聞いてきたのではないと言いながらこの先にコーヒー屋があると聞いて、とは無茶苦茶だ。お前の言語力は壊滅しているのか?」
男の人が華麗に罵りながら赤い缶の蓋を開けると、コーヒーのいい香りがした。スプーンに1杯、2杯、測ってミルに入れる。
「あなたとは違ってよく人間ができたおじさまが、傘を忘れた私ににこやかに差しかけて駅まで傘に入れてくださったんですー。その時に、コーヒー飲みに行くっていうから」
少しばかり皮肉を入れつつ言い返すと、
「その男、背の高い、ちょっといかつい体と顔をしたじいさん手前か?」
ミル挽きの手を止め、少し意外そうな顔をして尋ね返してきた。
「おじいさんって感じはしなかったけど、劇渋イケオジだったのは確かですね」
「あらまあ」
見れば隣の美女も目を丸くしている。一体なんなの?
「おい、藤丸」
呼び捨てかよ、と突っ込む間も無く、
「その話、最初からもうちょっと細かく聞かせろ」
とせがまれる。
「俺たちが考えている御仁と多分同じ人物だがキャラクター像が一致せんのだ」
ニヤリと笑った男が豆をフィルターに入れて湯を注ぐ。コーヒーのいい香りが部屋に広がった。
2-(6) Show more
大して話すこともないんだけどなあ…。
思いながらも、傘を持っていなかったところ差しかけて入れてもらった話をする。案の定、
「……それだけか?」
「それだけですよ」
「つまらん」
ほんと何なんだこの人……。
「イケオジだというからもっと何かいい話が出たのかと思っていたのだがな」
「例えば?」
「ありがたい社会人じみた話だとかさりげなく口説かれただとか」
なんだそれ。思いながら、出されたコーヒーを一口啜る。
私が知っているコーヒーとは全く違う味がした。
「えっ……これ、えっ」
「気に入らんなら残せ」
気にいる気に入らないの話ではなかった。さっぱりとしているのに薄くない、確かにコーヒーだけれど特有の味のきつさがなくなってするする飲める。
「おいしい……」
ちょっと呆然としながら呟くと、美女がすすすと近寄ってきた。
「お客様、これで共犯ですわね」
「えっ」
にっこりと微笑む彼女の顔が怖い。めちゃくちゃ怖い。一体何が混ざってたんだろう?
「うちが秘密喫茶なわけを教えてやろう」
ちっちゃい無礼者もニヤリと笑いながら自分のコーヒーを啜る。
「これやばいやつなんですか?」
2-(7) Show more
「非合法なものは入っていない」
男の人がニヤリと笑う。
「が、どこにも申請をしてない」
「……お店出すのに申請っているんですか?」
つるっと聞いてから後悔した。
「そんなこともしらんのか--」
「飲食店を営むには保健所への届け出が必要だそうですのよ?」
近づいてきた美女が更にぐいと乗り出してくる。避けたものの倒れそう……。
「この姿形も器量もミニマムな方はどういうわけかコーヒーを入れるのだけはまあまあ才能があるのですが、それ以外がからきしですのでこのような日陰の暮らしをしているのです」
「この牛女のカウンセリングルームということにしているが、見ての通り人との距離が測れん不具合があってな。せめて飲物だけでも美味いものを、といったところだ」
「……仲いいんですか?」
「「誰が?」」
だから秘密で喫茶で告解なんだな……。とりあえず違法な飲み物ではなかったようでほっとする。
納得している中、こんこん、と部屋の扉が叩かれる。
「……はぁい、どなた?」
私に覆いかぶさったまま美女が返事をすると、
「柳生だ」
と、ほんのひととき交わした声が聞こえてきた。
「こっちに一如して」などと言っていたらドメインが取れることに気づいてしまったので作ったインスタンス
1-(2) Show more
本当にただ親切にしてくれただけみたいで、特にその後も何も言ってこない。こちらが逆に気を使いたくなるぐらいに。とはいっても、一体何を話せばいいのか全然わからなくて困る。困った雨ですね?とか?
迷っている間に信号が青に変わった。人波から飛び出そうにも傘が危ないし、まごついているとそのままおじさんが隣に立つ。追い討ちをかけるように、
「駅の手前のコーヒー屋までなら入れていけるが」
左上からいい声が降ってきた。ここから駅まではもうふたつ大きな信号があるし、この人ごみを考えると願ってもない申し出だった。
「いいんですか?」
「ああ。ずぶ濡れになるのは気の毒だ」
それきり、またおじさんは黙ってしまった。次の信号でまた立ち止まる。青に変わる。進む。また信号に引っかかる。
「……コーヒー、お好きなんですか」
駅が見えるところまで来て、やっとのことで会話の糸口を見つけ出した。こちら側の出口にはありがちなチェーン店がないことを思い出したのだ。
「割と。温かい飲み物はほっとするだろう」
特に今日みたいな雨で冷える日には、と続けられて、私は心の底から頷いた。靴が濡れて爪先が冷たい。
#雨とコーヒー