最後の仕事だったからか。
「な、なに……?」
“タジマ”は、目の前の死体から目を逸らし、路地と大通りの間に立つ少女を見た。部活帰りなのだろうか、逆光で黒いコートとプリーツスカートがよく見えた。今まで暗い場所にいたせいだろうか、橙色の瞳が眩しく見える。ふぅ、と出た小さな息が白く消えた。
ボロが出て捕まってしまう前に、この仕事を引退しようと決めてから引退できるまで数年掛かった。今、ここで捕まってしまったら何もかもが泡となる。
“タジマ”はゆっくりとナイフをコートの内ポケットに入れた。
「気にするな。只の仕事だ」
だから、帰れ。
遠回しに伝わったのか、ゆっくりと少女の足が下がっていく。
しかし、少女は去らなかった。
「……なんの、仕事ですか」
「聞いてどうする」
「……いえ」
ただ、と震える唇が動く。
「なんだか、貴方が寂しそうで」
「変な奴だな」
「良く言われます」
肩に掛けたスクールバッグの持ち手を握る手も、すらりと伸びた足も震えているのに、何故か少女は逃げなかった。その理由に笑えなかった俺も、変な奴に見えているのだろうか。
人生最後の裏仕事の日、俺は年下の、将来の妻と出会った。
大通りに出て、路地から数メートル離れると、“タジマ”は少女の肩から手を離し、隣に立った。人が多いせいか、黒のコートを着た老人と制服姿の少女が横に並んで一緒に歩いていても不審がる者は誰もいない。
――家に帰ったら、すぐに通報しよう。
立香は心の中で強く頷いた。最初に見た時、その横顔が寂しそうでつい声を掛けてしまったが、相手は殺し屋なのだ。そう言えば、男の顔がどんなだったのかちゃんと見ていない。隣の男をちらり、と見ると金の瞳とかち合った。慌てて前を向いたからか、特に何も言われなかった。雑音に紛れるクリスマスソングに、もう年末か、とどうでもいいことを考えてしまう。クリスマスも近いのに、彼氏でもなんでもない初対面の男と一緒に歩いている。
立香の足が止まった。
「どうした」
「どうして、貴方と一緒に歩いているんですか」
ふっ、と男の口角が上がった。
「ばれたか」
「……そんな顔もするんですね」
「笑ったのは久方ぶりだ」
男の顔がまた険しくなる。
「来い。私の馴染みの喫茶店で温かい飲み物を奢ってやる」
罠かもしれない、と警告する理性とは反対に、もっと一緒にいたいとどこかが叫ぶ。
「……はい」
返事を聞くと、男はそのまま無言で歩き始めた。男は慣れた様子で大通りを進み、人気の無い道へと進んでいく。気が付けば、住宅街へと入り込んでいた。住宅街と言えども、雑居ビルがポツンとあったりなかったりと、ちぐはぐさを感じる。地元である立香も何度か通っただけで、あまりここには詳しくない。男が言う喫茶店なんて本当にあるのだろうか、と不安が頭をもたげかけた時、男が再び口を開いた。
「断らないのか」
言葉とは裏腹に、また男の口元が緩んでいる。
「断ると思って誘ったんですか」
「まぁな」
「私も、断ると思ってました。けど、貴方のことが気になっていて、いつの間にかはいって言ってました」
「自分が何を言っているのか、分かっているのか」
薄暗い場所にいるせいか、こちらを振り向いた男の顔が良く見えない。怒っているのか、泣いているのか、それとも笑っているのか、立香には分からなかった。
「……いえ。でも、私の心のどこかに貴方のことが引っ掛かっているので、好奇心だと思います。……多分、ですけど」
「そうか」
そう言うと、男はまた前を向いて歩き出した。
(多分、)立香は息を吐いた。(恋、なのかな)
好奇心なのか、恋なのか、まだ若い立香にはどちらなのかは分からなかった。もしかしたらただの好奇心で、恋はただの勘違いかもしれないし、実は一目惚れしていて、それを好奇心だと思い込んでいるだけかもしれない。そのどちらでもない未知の感情だってあり得る。だが、1つだけはっきりしていることがあった。
「……この人になら、私の初めてを売っても良い」
思わず音になっていたその言葉は、横を通り過ぎた車にかき消された。
男は、立香が何故夜遅くに大通りにいたかなんて気にしていないようだった。だから、男は立香が体を売ろうと大通りにいたなんてことを知らない。ましてや、立香が親も親戚もいない一人暮らしの貧乏学生なんてことも知るよしも無いだろう。
だからと言って、本当に男に体を売る気はあるかと言えばそうでもない。今日だって、いざ大通りに行ったは良いものの、ただ歩いて時間を潰しただけだ。きっと、実際にそうなれば逃げ出すのが目に見える。
「着いたぞ」
言われてから初めて、いつの間にか下を向いていたことに気づいた。見上げれば、目の前には古びたビルがある。2階の辺りの壁から『喫茶・TRACE』と赤い看板が飛び出していた。
何か心配なことでもあるのか、少女の体が強張っている。やっとここへ来て、多少の危機感は覚えているらしい。
今更か、と思いながら“タジマ”は口を開いた。
「体を売るよりも、良い働き先があるぞ」
白かった幼い顔が更に青白く染まっていくのを見ながら、“タジマ”はため息をついた。
「深夜の大通りで少女ができることは限られている。そうではないかと思って聞いてみたが、本当にそうだったとはな」
「でも、できませんでした」
“タジマ”の目から逃れるように、黄色い瞳が下へと向く。しかし、その口からぽつり、ぽつりと言葉が少しずつ出てきた。
少女によれば、親も親戚もおらず、バイトだけでは金銭が足りなくなったからと体を売るために大通りへ出たは良いものの、やはり好きでもない人と肉体関係を結ぶのに抵抗があって何もせずにただ大通りを歩いていたところ、“タジマ”が最後の仕事を終えた時に偶然見てしまったらしい。
「私が言うのもアレですけど、不運としか言いようがありませんよね」
「……良かった」
「え」
“タジマ”の手は自然と少女の頬に伸びていた。
「お前の初めてがどこの誰かも分からない男に奪われなくて、本当に良かった」
やはり擽ったいのか、少女の体は小刻みに震えている。それでも手を払おうとする素振りは見せないので、もう少し好きに撫でておくことにした。
「そう言えば、お前の名を聞いていなかったな」
「あ、貴方だって言ってないじゃないですかっ……!」
不満げに上目遣いで此方を見るものの、まだ顔は赤いままだ。
(まるで、愛撫を受けているみたいな顔だな)
そう思ってしまったのが、いけなかった。
理性が止める間もなく、ずくり、と下腹部に熱が集まっていくのが手に取るように分かる。どうして、こんな平凡な少女に惹かれてしまうのか分からぬまま、欲だけが集まっていく。
「裏に生きる者たちからはタジマ、と呼ばれている」
裏の世界では本名は用いないのが暗黙のルールだ。“タジマ”の場合、あまり真剣に考えずに初めての仕事の標的の名前から取った。あれから数十年経った今では、裏の世界で本名を知る者は一人もいない。
「……フジマル、リツカ」
「漢字は」
「藤の花の藤に丸いの丸、香りが立つと書いて立香」
「立香……良い名だ」
りつか、と口の中で転がせば、甘い香りがした。
「貴方は本名じゃないんでしょ」
「閨の中なら教えられるがな」
立香は息を呑んだ。目の前の男はいたく真面目な顔をしているが、本気に見せ掛けた冗談だってありうる。この人なら良いって思うんじゃなかった、と立香は心の中で叫んだ。そう思わなかったら、こんなに心臓を早くすることもなかったのに。
(ここはひとまず、聞かなかったことにして話を逸らせよう)
「家事手伝いになろうとする子を口説くのが趣味ですか」
「気になった者を己の近くへ引き寄せたい、とは思うがそんな趣味は無いな」
結局、立香の顔が更に赤くなっただけだった。
(そっちがこう来るなら、質問を畳み掛けてみよう)
「給料は」
「月20万」
「生活費や家賃は」
「私の家だ。気にするな」
「平日の半日以上は学校ですけど、休日は」
「平日と土曜日は働いて貰うが、日曜日と祝日は休め。休日分の家事は私がする」
「特別休暇とか長期休暇は無いんですね」
「取りたいと思ったら私に言ってくれ」
「平日も働くってことは、学校を辞めろってことですか」
「学生の本分は勉学だ。勉学に差し障りの無い程度で働いてくれ」
「ボーナスって無いですよね」
「年末年始や連休時に働いたら、働いた分に応じて出すつもりだ」
「恋愛は」
「自由だ」
(は、早すぎる……返答が、早すぎる……)
質問の残弾が尽きた立香は、ぐったりと身を投げ出すようにテーブルの上に突っ伏した。それでも、頬に添えられていた大きな手は立香から離れようとはしない。今度は、耳の近くの髪をかき上げている。
「そんな事を聞いた、ということは、誰か好いている者でもいるのか」
頭上から降ってくる声は、どこか楽しげだった。
「……気になる人は、います」
「ほぅ、どんな奴だ」
話の続きを促すように、耳朶を優しく掻かれる。ぞわり、と耳の辺りの産毛が粟立った。むず痒いのに、嫌な気分には全くならないのが悔しい。
「初対面で、名前も知らなかったのにセクハラ紛いの言葉で口説いてきたり、許可してないのに勝手に触ってきたりする今日引退した元殺し屋です」
上からの言葉は何もない。代わりに、耳朶を好き勝手に触っていた太い指が動きを止めた。
「でも、どうしてかちっとも嫌な気にならないんです。それどころか、」立香は大きく息を吸った。「もっとしてほしい、って思うんです」
言葉も、動きも、何もない。
「一目惚れって、言うのかな」
胸が苦しいのは、きっと上手く息を吸えていないからだ、と立香は思った。
「その気になる相手とやらに抱いている気持ちが分からないのか」
こくり、と伏せたまま頷けば、耳朶を弄んでいた手が頭へと移った。
「奇遇だな。私も今似たような感情を抱いている相手がいるのだが」
「……誰ですか、それ」
私なのかな、と立香の頭の中に淡い期待が浮かぶ。何故自分という返答を待っているのか、それも分からなかったが。
「誰だと思う」
ゆっくりと、頭を撫でられる。
ずるい、と立香が唸れば上からはて、何のことだかとすっとぼけた声が返ってきた。きっと、黄色の瞳を細めて面白げに此方を見下ろしているのだろう。
「……っ」
タジマ、と名乗った男の顔を思い浮かべただけで、胸の鼓動が早くなる。体の奥から熱が飛び出して、頭の先から足の先まで熱くなっていく。
「立香はどう思う」
ずるい。本当にずるい。
名前を下の方で呼ばれて嬉しいと思ってしまう自分の浅ましさに、立香は身悶えた。地団駄を踏みたいのを我慢する代わりに、両手を頭へと持っていく。丁度頭の中央に置かれていた目当ての物を掴むと、そのままそれを持ち上げてがばりと身を起こした。
(こうなったら、やけくそだ!)
「わ、私だと思いますっ!!」
「当たりだ」
はにかんだ“タジマ”の顔を見てからというものの、立香の心は店内にはいなかった。暫くしてから来たココアは味が無く、“タジマ”が裏メニューがどうのこうのと言っていたが、立香の耳から耳へと通り抜けただけだった。
「立香」
「はい」
味のしないココアを飲みながら、立香は頷いた。
「今日はもう遅い。近くに私の家があるから泊まっていけ」
「はい」
頷くと、立香はもう一口ココアを飲んだ。今度は少しだけ、甘いココアの味がしたような気がする。
「ん?」
目を丸くする立香に、“タジマ”は口の端を上げた。
出会ってから半日も経っていないが、立香とはとても顔の表情がよく変わる。ずっと見てもこの少女なら飽きないのではないだろうか。“タジマ”が目を細めたことに気づいたのか、立香が不思議そうに此方を見てきた。
「で、どうする」
「えっと、その、私の家も近いですし」
段々小さくなる声が、冷水に思える。思い返せば、出会ってから直ぐに口説き文句を言っていた。幾ら相手が若者とは言え、我ながら性急過ぎる。ここは一先ず距離を置かねばならない。
「だから、その」
「ああ」
「明日、土曜日なので、いい、ですよ?」
こんなに女性に積極的になったのは、数十年ぶりだろうか。妻が生きていた頃は妻に、妻が亡くなってからは風俗で、己の肉欲は満たしていた。しかしそれも四十の頃までで、還暦を過ぎた今はもうそういうものとは無縁だと思っていた。
だが、今の自分は孫娘のような歳の少女に手を伸ばしている。それが、何よりもの事実で、言い訳が出来ないほど冷たい現実だった。
「……良い働き先ってどこですか」
何も無かったかのように淡々と聞いてくるが、首から上はかなり血色が良い。この質問も、今の状況を変えようとして聞いてみたものに違いないだろう。しかし、頬に置かれた“タジマ”のかさついた手を振り払わないということは、此方に好意を持っていると捉えても良いということか。
「住み込みの家事手伝いだ」
「どこの家ですか」
「私の家だ」
出来る限り甘い言葉で言いながら頬に置いた手の指を丸め、指の背で産毛をゆっくり撫でる。
「んっ、」
擽ったいと思ったのだろうか、顔を赤らめながら一瞬瞼を閉じて堪えてはいるものの、赤い唇から声が漏れ出ている。震えているのが何とも可愛らしい。
「で、どうする」
「や、やります……っん」