「明日、土曜日なので、いい、ですよ?」
“タジマ”は目の前の顔を赤くしている少女をまじまじと見つめた。
今日引退したばかりとは言え、裏社会に浸かっていた彼にだって常識というものはある。例えば、未成年の子を無闇に自宅に引き込まないとか、未成年の子と性行為してはならないとか。しかし、今の彼はその常識もとい法律を無視していた。人生は長いようで短い。他の男に初物を取られる前に、手抜かりなくしかし彼女を怖がらせずに頂かなくては。
自由なようで不自由だった殺し屋という職業から解き放たれた今の“タジマ”は、生き生きと最後の伴侶にするつもりである少女――藤丸立香をものにする算段を立てていた。
興奮するのも無理はない。明日が休みだからと、初対面の、しかも好意を彼女に向けている男の家に留泊まることを承諾したということは、つまり。
「……襲われても、文句は言わせんぞ」
自己責任だからな、と付け加えると更に彼女の顔が赤く染まった。
「い、痛く……しませんよね?」
「する訳が無い。むしろ、天上へ連れていってやる」
目を泳がせながら何度も頷く立香を見ながら、“タジマ”は心に決めた。
(立香から誘われたら抱こう)
誘われるまで抱かない、というのは言い換えてみれば理性と欲望の戦いである。年を取って欲は少なくなり、理性の力が増したとは言え、抱きたいと思っている女の前だ。とは言え、無理矢理組み敷いては立香の心に傷を残してしまう。ここは大人として、言葉ではっきり誘われるまでは抱かないのが正しいだろう。
己の心に自制という鎖を巻き付けながら、“タジマ”は数分前からあったブラックコーヒーにやっと手を付けた。ほのかに温い苦味が頭から欲を洗い流し、現実に引き戻す。鼻に付く血の臭いが、立香と出会ってからまだそんなに時間が経っていないことを教えてくれた。
「……ね?」
「ん、すまん。物思いに耽ってよく聞こえなかった。もう一度、言ってくれないか」
「ほ、本当に聞こえなかったんですか」
疑心暗鬼にかられている視線が痛い。怒ってはいないと分かってはいたが、“タジマ”は言い訳のように口を早めた。
「ね、と最後だけ聞こえたのだが……もうそろそろ行きますかね、と言ったのか」
「いいえ。その……」
置いていたココアを一口飲んでまた置くと、立香の肩が大きく上がった。
「優しく、抱いてくださいね?」
もう知らん、と欲が理性を投げた。
「出るか」
「はいっ」
椅子から立ち上がり、動こうとしている立香の動きはまさにロボットである。しかし、“タジマ”にはそれをからかうことはできなかった。本来、恋人や夫婦同士の性行為は妊活を除けば、普段からの二人のコミュニケーションが十分にあって成り立つ深いコミュニケーションの一種である。だが、“タジマ”と立香はまだお互いの性格は勿論、素性も十分に知らない仲である。立香に至っては処女を捧げようとしているのだから、緊張しない方が無理な問題だ。無理しなくても良い、と言ってやりたい所だが、今の“タジマ”の脳内に理性はいない。
「……怖いか」
「怖いですよ」
頬を膨らませながらつっけんどんに言う彼女も、今の“タジマ”には恐ろしいとも思えなかった。むしろ更に、今すぐ抱いて啼かせたくなってしまう。一体この子はどれだけ男を煽れば済むのだろう、と頭を抱えたくなりたい気分に“タジマ”は襲われた。
「でも、タジマさんに抱かれたい、と思っているんで後悔はしてません」
確りと見つめてくる琥珀の瞳は路地で遭遇した時のと同じ、強い意志を持った瞳だった。
「立香は老いぼれを口説くのが上手いな」
「貴方だって」
こうして喋ってみても、予想外の言葉を投げてくるものだから中々に面白い。付け加えて、踏み込んでも良いことと踏み込んではいけないことをそれとなく察知する力も高い。一緒にいても良いどころか、ずっといても良い気さえする。良い女、というのは体の相性ではなく心の相性で決まる、とどこかの雑誌に載っていた文言を“タジマ”は思い出した。
上機嫌なのを顔に出さないように気を付けながら金を出すと、褐色の青年が苦笑い気味に口角を上げた。
「タジマさんもまだまだ若いですね」
「好きな女を前にすれば誰だってそうなる」
「そうですか。……話は変わりますが、隠居は」
いつの間に奥から持ってきたのか、引き出しから避妊具を取り出しながら尋ねてきた。
「隠居? しないな」
レシートと共に受け取ったそれを、“タジマ”はちらりと見た。
「もう1サイズ大きいのは無いのか」
「ありますよ。……何か新しいことでも始めるんですか」
流石に喫茶店のマスターをやりつつ裏社会で武器屋として生きているだけあって、褐色の青年は驚きをおくびにも出さなかった。
「裏社会で起きた面倒事を解決する稼業でもやろうと思ってる」
「現代の剣客商売ですね」
ビルから外に出た瞬間、一際強い風が二人の体に当たってきた。
「うっ」
肩を強張らせ、引っ込まない首を引っ込めようとしているように見える立香に、“タジマ”は声を掛けた。
「入るか」
コウモリのようにコートの片方を広げてできた空間に、立香は返事もせずに飛び込んだ。“タジマ”も何も言わずに、ゆっくり歩き始めた。
夜も深くなり、車も通らぬ人気のない街に二人分の足音が響く。それは、注意してよくよく耳をすまして聞いてみなければ聴こえない、小さな足音だった。重くのし掛かる静けさに追いやられたのか、コートの中で隠れるように歩いている立香は少しでも音がしないように呼吸している。店を出るまではあれほど考えていた話題も、いつの間にか夜の闇の中へと消えていた。だが、それでも気まずさは感じない。むしろ、心地良いぐらいだ。それは、相手との信頼関係が築けて初めて得ることができる、唯一無二の空間だった。
だからこそ、立香の方はどう思っているのかが気になる。もしかしたら、自分一人だけがそう思い込んでいるだけかもしれない。
“タジマ”はコートの中を見た。立香は、少しはにかんでいた。
「どうしたの?」
“タジマ”の家は、喫茶店がある街の少し外れ、いわゆる郊外に建っていた。昔ながらの様式を残した日本家屋の一軒家は、マンションやアパート、洋式の一軒家といった周囲のせいで少しばかり浮いている。
「凄い……」
立香が感嘆の声を上げるのも無理はない。木製の門を潜ると、規模は小さいながらもちゃんとした日本庭園が広がる。“タジマ”の家は、裏庭ではなく表に庭のあるもので、ちゃんと見れば物干し竿もある。
「祖父の代からある家だ」
「へえ……」
“タジマ”の嘘に立香が気づく様子は無かった。
己の剣の道を更に極める為に山間にある故郷を去り、人斬りができる真っ当ではない世界に居続けた。この家も、そうして居続けたことによって得られた褒美の一つであった。まだ日本が好景気に浮かれていた頃、ある大きな『仕事』をやり遂げた“タジマ”に感服した客がよくやった、と自身が持っている家の一つをくれたのだ。もうその客もこの世にはいないが、家の権利を持っている“タジマ”には何ら関係の無い話である。
そう、昔の妻や喧嘩別れした息子のことなど、立香には何の関係もない。
滑りそうになる唇を噛み締め、“タジマ”は玄関の戸を開けた。
「あの、庭の手入れも仕事に入るんでしょうか」
「いや、庭は業者に任せている」
玄関に入り、鍵を閉めてから振り返ると、立香はほっとした顔をしていた。きっと、庭の手入れのことで頭がいっぱいだったのだろう。
しかし、これで彼女はここから出られなくなった。
漸く、自分の家に招いたと言う実感が体の底から湧いてくる。征服感と言えば簡単ではあるが、独り占めしたいと言うのとは違う。例えるなら、自分の視界の中に幼子の子供を入れたい親の気持ちだろうか。親の心情を持つ恋人など、奇妙なものだ。
お邪魔します、と言いながら靴を揃えて上がる立香の真っ白な足から目を逸らし、思い付いたことを口にした。
「立香、お前が先に風呂に入るか」
「えっ、いや、タジマさんが先で良いですよ」
「嫌、お前は客だ。先に入ると良い」
自分も靴を脱いで上がり込むと、ひんやりとした床が足裏を擽る。無理矢理気味に立香が持っていたスクールバッグを持ち取れば、空いた両手をぶんぶんと振り回す。
「で、でも、タジマさんはこの家の主ですし」
「その家の主が良いって言うんだ。早く風呂に行け」
こっちは早くトイレに行きたい、など言える筈が無かった。
数分間という時間は、不毛な言い合いをしている二人の気力と体力を持っていくのには十分すぎる程の時間だった。
「……一緒に入るか」
「……ですね」
恥もかなぐり捨てたのか、立香は顔を赤らめることもなくあっさりと“タジマ”の提案に乗ってきた。これは風呂場で襲っても良いということか、いやそうじゃない。
深呼吸を何度かすると、体の火照りが冷めたような気がした。
冷たい廊下に彼女を居続けさせるのも忍びなく、“タジマ”は居間に続く障子を開けた。中に入り、電気を付けると暖房器具と炬燵と薄型テレビぐらいしか目に入らない殺風景な居間が現れる。炬燵と暖房器具を付け、立香に炬燵に入るように手で示せば、コートを脱ぎ、そろそろと座った。
「女物の下着は無いが、寝間着代わりになる服があるからタオルと一緒に取ってこよう」
「ありがとうございます」
「それと、今やっているアルバイトや小遣い稼ぎがあったら全部辞めろ。だが、もし家事手伝いだけと言うのは不満があるのなら、また新しく探せば良い。その時はちゃんと私に言うようにしてくれ。一応、保護者の役目を担うからな」
衣紋掛けに掛けたコートを吊るし、その下に鞄を置いた。
「分かりました。あの、今連絡しても良いですか」
「こんな遅くにか」
「でも、日曜にシフト入ってるんです」
つまり、土曜日にならない内に連絡したいという所だろうか。
「今日はもう遅い。今連絡すれば、失礼になるだろうから止めた方が良いと思うのだが」
「じゃ、明日の朝にします」
「バイトは何をしていたんだ」
「飲食店でのバイトを3つです。でも、ほとんどが親の借金返済で」
「……」
“タジマ”の顔が険しくなるのに気づいて、立香の顔も青ざめる。
「あ、でももう少ししたら返済しきるので!」
「そうか。……一応、聞いておくが、それは表か」
聞いた途端、立香の目が右に左に泳ぎ始めあ。嘘を付くのが下手すぎて、逆に憐れんでしまいそうになる。
「裏なんだな」
「……はい」
死んだ立香の両親のことを考えると、思わず反吐が出そうになった。きっと、自分たち二人なら返せると思っていたのだろう。
「もしかすると払い過ぎているのかもしれん。明日、その話をゆっくりと聞こう」
“タジマ”の大きな手が橙色の頭を撫でた。
「だから、今日は安心して俺に抱かれろ」
タオルと着替えを取ってくる、の声に彼女は甲高い呻き声で返事した。
着替えを取ってくると言ったものの、タジマの家に女物の服は無かった。子供は全員男だったし、妻も亡くなってから遺品整理で処分した。あるのは最低限の夏服と冬服、下着類等と言ったもののみ。
「……む」
箪笥の引き出しを漁っていると、新品同然の白さを保ったままのセーターが目に入ってきた。暗めの色の間で一際目立つそれに、記憶の糸を手繰り寄せようとタジマは眉間に皺を寄せる。
「そう言えば、福袋の中にあったな……」
去年の正月、食材を買いに行ったデパートで偶然売れ残っていた福袋を見つけて買ったのだった。この白の縦セーター以外は己に合うものだったが、こればかりはどうしても似合わなかった。
取り出してみると、タジマの腰元よりも少し下辺りまで十分丈がある。これなら、もし下に着るズボンが無くてもしっかりと伸ばせばワンピース代りに出来そうだ。
これにするか、と一人呟いてタジマは白の縦セーターを片手に部屋を出た。
居間に行くと、既に立香の姿はない。二人きりになるのが気まずいのだろうか、遠くの方から湯船に湯を注ぐ音が聞こえる。
――もしや、先に風呂へ入っているのでは。
その考えが頭を過った瞬間、体が熱くなった。
もう若くは無いのだから、と頭を振っても体の熱は引けそうにもない。中心に熱があまり集まっていないのが唯一の救いだが、それもいつまでもつことか。
自分の家だと言うのに、タジマは自然と足音を消しながら廊下を歩いていった。角を曲がり、灯りの灯った洗面所を通り、ぼやけた引き戸を叩いた。引き戸の向こう側には、人影が立っている。どうやらまだ、湯は十分に溜まっていないらしい。
「あ、あの、その……」
不安が見え隠れする声は、冷や水のようにタジマの体を理性あるものに戻していった。
「一応、着替えとなりそうな服を持ってきた。近くに置いておくから、風呂から出たら着てくれ」
置こうとして視線を横に滑らすと、洗濯籠に無造作に入れられたブラジャーが目に入る。ベージュ色の質素なそれに、金色の目は縫い付けられたようにじっと見続ける。
理性が止める暇もなく、脳裏に顔を赤らめながら制服のシャツを脱いで下着を見せる立香の姿がありありと浮かび上がる。
ごくり、と皺に包まれた喉が鳴った。
「あ、あの」
「あぁ、すぐに出る」
「いえ、そうじゃなくて」
静かに引き戸が開いた。
「……入りませんか、一緒に」
魅惑的なその言葉に釣られるように、タジマの首は縦に振っていた。
途端、彼女の顔が明るくなる。
「じゃ、そろそろ湯も溜まってきたので先に入りますね!」
「あぁ」
引き戸が閉じると、タジマはほう、と息を吐いた。
立香の身体は、想像していたよりも幼く、白かった。あまり太っていない細身の体は健康そのもので、見た限り筋肉もしっかりと付いているらしい。胸も控え目なもので、今まで抱いてきた女性たちの中では一番無かったと言っても過言ではない。がっかりした、と言えなくもないのが正直な所だ。
だと言うのに、タジマの瞼の裏から彼女の肢体が離れることはなかった。それどころか、服と下着を脱いでみれば、タジマのそれは緩く立ち上がっている。
ズボンから取り出した避妊具のパッケージに映るタジマの顔は、ひどく歪んで見えた。
「――そうか」
タジマは空いた片手でぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「俺もとんだ悪者になったものだな」
まだ少女のままである好いた子をこれから一人の女にさせていくことに興奮していると気づくのに、経験を積んだ大人が気づくにはさほど時間は掛からなかった。
「入るぞ」
舌舐めずりしながら、老狼は中に入った。
二人分の足音が消えた。
急に止まったせいか、立香の目はますます疑問で輝いている。
美しい、と“タジマ”は立香にも聞こえない声で呟いた。
「……どうしてか、黙っていても、お前と一緒にいると気不味いどころか心地好いと思ってな」
立香の目が更に大きく見開いた。
「そうだったんですか」
「あぁ」
「私も、同じこと思ってました」
照れ臭いのか、少し笑うと目を逸らす。
「その、血とか、煙草の匂いとか普通だったら嫌だな、って思うのにす、タジマさんだとちっとも嫌じゃなくて、黙って歩いているのにどこか心地よくて、ほっとするんです。……おかしく、ないですよね」
「可笑しく無いとも」
血の臭いがしても逃げ出さないとは、剛胆だな。と、言わないのが大人である。優しい言葉と共に笑いかけた“タジマ”に安心したのか、また笑うと顔を赤くさせて俯いた。
「はてさて、今日は何回顔を赤くさせるのか」
「からかわないで下さい! こっちはタジマさんのせいで心臓がいくつあっても足りませんから!」
「それはすまん」
「もー、それ本気で言っていますかー」
膨れた頬をつつこうかつつかまいか悩んでいる内に、見慣れた家に着いてしまった。